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            <title>第７回　市民活動サロン「遊学亭」「居場所が見つけられない若者の居場所づくり</title>
            <description>	市民活動サロン「遊学亭」は、毎回違う人が「亭主」になり、
亭主自身が注目している市民活動家をお招きし、サロンを
開催します。 
	「遊学亭」では市民活動に必要な「ひらめき」
「新しい刺激・情報」「出会い」「充電」などの機会を
参加者のみなさんとともに共有できるよう、亭主自身が進行や
もてなしを工夫します。 
	もちろん一方的なお話しだけではなく、
発題の後に参加者同士の話し合いの場は毎回確保されます。
開けてびっくり玉手箱のような、新鮮なサプライズと
遊び心満載の仕掛けをお楽しみください。 
	※「亭主」とは遊学亭の主人の意味で、男性をさすものでは
　ありません。
※市民活動サロン「遊学亭」を奇数月の土曜日または
　日曜日の午後に開催します。 
	■日　時：２００７年５月２０日・日曜日　１４時～１７時 
	■会　場：大阪ＮＰＯプラザ　会議室Ｃ　（３Ｆ）
　http://www.onp.or.jp/contact/index.html
　（大阪市福島区吉野４-２９-２０） 
	■参加費：１，０００円 
	■定　員：２０人（先着順） 
	■内　容：「居場所が見つけられない若者の居場所づくり
　～発達障害を含むコミュニケーションの苦手な人の支援として～」 
	　発達障害が社会的な問題となっていますが、今回のゲスト鍛治田
千文さんは、大学時代ＹＭＣＡボランティアリーダーを経て
ＹＭＣＡへ入職した後、２００１年から発達障害児対象のサポート
クラスの責任者となり、この問題に取組んでいます。 
	　学校ではいじめなどに会うことも多く、不登校になってしまうケ
ースも少なくありません。鍛冶田さんは、こうした子どもたちが、
「生まれてきてよかった」と思える自尊感情を持てるように、その
居場所と学びの場づくりを決意します。 
	　そしてＹＭＣＡの中で、2005年から多様な不登校経験者を対象と
した大阪ＹＭＣＡ国際専門学校高等課程表現・コミュニケーション
学科を立ち上げ、中学校で不登校などを経験したような子どもたち
の居場所を作りました。 
	　丸２年がすぎ、「安全で守られた居場所」が与えられると、子ど
もたちは、楽しく学び、自尊感情を育てていくことは実証されてき
ました。来年春には初めての卒業生を出すことになります。 
	　これは喜びでもありますが、なかには大学進学も就職もできない、
したくない生徒達や、他にも高校は卒業したけれど社会に出るには
まだまだ自信がないと思っている青年たちの居場所がありません。
いま鍛治田さんは、「こうした子どもたち、そしてもっと広く社会
に適応しにくい若者の居場所を作りたいと考えているが、そのこと
に皆さんの意見がほしい」と考えています。 
	　当日、いろいろなご意見をいただけたらと考えています。
お茶を飲みながら、一緒に考えてみませんか。
どうぞお気軽にご参加ください。
	○ゲスト プロフィール
★鍛治田千文さん
「大阪ＹＭＣＡ国際専門学校　
　高等課程　表現・コミュニケーション学科　学科長」
	大学時代ＹＭＣＡボランティアリーダーを経てＹＭＣＡへ入職。
２００１年から発達障害児対象のサポートクラスの責任者となる。
２００５年から多様な不登校経験者を対象とした大阪ＹＭＣＡ国際
専門学校高等課程表現・ コミュニケーション学科を設立。 
	○亭主 プロフィール
★博野英二さん
「市民活動プロデューサー協会」 
	　市民活動の活動企画や運営を支援する市民活動団体に属している。
仕事では、組織においてみなが、智恵とチカラをあわせられる経営
を促進する「チーム経営研究所」の代表。大阪ＹＭＣＡ国際専門学
校高等課程表現・コミュニケーション学科でも講師・組織運営アド
バイザーを勤める。中小企業診断士。 
	○進め方
　１４時００分　チェックイン
　１４時１５分　ゲストのお話
　１５時１５分　フリートーク
　１６時００分　お茶を楽しみながらワイワイと
　１７時００分　サロン終了
　※希望者は二次会へＧＯ！ 
	■主催：
　市民活動プロデューサー協会
　http://www.jcapa.com/
　大阪ボランティア協会
　http://www.osakavol.org/ 
	■申し込み・問い合わせ先：
　大阪ボランティア協会
　Ｔｅｌ：０６-６４６５-８３９１　Ｆａｘ：０６-６４６５-８３９３
　〒５５３－０００６
　大阪市福島区吉野４-２９-２０　大阪ＮＰＯプラザ１００号 
	■申込方法：
　【１】ＷＥＢからの申込み
　http://www.osakavol.org/b-yugaku/index.html

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            <title>”いっぱいいっぱい”におもうこと</title>
            <description>	　桜の季節である。この季節、車で出かけても自宅近くの桜や木々の緑を楽しむことができて、特に花見に出かけなくても花見気分は満喫できる。
ところが、この春はちょっと様子が違う、遠くの山や、樹々、桜が見えない。
　というのはこの春に自宅近くの駅前に24時間営業大型スーパの建物が出現したからである。この計画が発表されてから近隣住宅地、既存店舗からは反対の意見が出されていたが、着々と工事は進められ、もう工事用の外壁シートもとりはずされた。街の中心に、高さは制限されているものの大きな建物が出現し、風景が一変してしまった。
何だか”嫌な感じ”なのである。
　これまではこのニュータウンが出来たときからの中型？のスーパーが同じ駅前にあり、ほぼ独占的に営業してきていた。サービスの悪さを批判されながらも近隣のまちへのスーパー出店があいつぎ、それなりに店の改善はされていた。
　それがこの大型店の計画が持ち上がってからは、格段のサービスアップなのである。大規模な改装にともない、商品も接客態度も格段に良くなった。
　そういえばいつからか定休日もなくなった。
　営業時間も長くなった。
消費者のニーズに応えてサービスアップしたということなのでしょう。確かに便利になりました。
一方で、夫婦で店をやっていたお豆腐屋さんがなくなった。かまぼこやさんも、おつけ物やさんも・・。
　レジの女性達は皆、一様に同じ言葉を口にして接客してくれる。&quot;ご丁寧に、そこまで言っていただかなくても”と、つい頭をぺこりと下げそうになる。何年来と利用しているので見知った顔も多いしそれなりに年を重ねている店員さんが、お仕着せの言葉を口にして迎えてくれても、何だか痛々しい。
　既存のスーパーも必死、新規にオープンする店も必死。
そんな中で働く人達にそれなりの働き方を求めるのは当然であろう。
ちょっと要領が悪かったり、飲み込みの遅いひとは、はじき出されるだろうなと想像してしまう。
　働く人もいっぱいいっぱい、受け入れる側もいっぱいいっぱい。
　かつては要領が悪くても、仕事が遅くても、人付き合いが苦手でも受け入れられる仕事の場はあったはずなのに。
　そう言う自分も仕事の場では、あまりに要領の悪い若者に何度も同じ注意をし「もう少し頭を使って！飾りじゃないのよ頭は」と口走ってしまうこともある始末。
　まあ、桜でも眺めながらのんびりとと言いたいが、桜にまつわることでこれが始まったのね。　
　さくら　javascript:bbinsert(document.post,'&amp;#8217;,' &amp;#8217;)
　　
　

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            <title>教育系ワークショップ企画セミナー</title>
            <description>	教育系ワークショップ企画セミナーに参加するため、
島根県太田市という山奥にある国立三瓶青少年交流の家に、出雲大社経由で、バイクで行ってきました。

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            <title>試行錯誤</title>
            <description>	市民活動プロデューサー通信とブログの関連を旨くつなげようと試行錯誤中。
カテゴリーが解りやすいように、視覚に訴えようと写真、イラストetc・・
試しにうちの愛猫の一匹を登場させます。

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        </item>
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            <title>ボラバイター</title>
            <description>	 　農家・牧場・ペンションのお仕事情報ボラバイト
ボラバイターというらしいです。
 　「蔑視による差別行為」と「偏見による差別行為」の区別について
この人のブログはいつも勉強になります。
 　言葉工房的日常
春を感じます。

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        <item>
            <title>「キーワードを探る」のもと</title>
            <description>	（この原稿は未完成です）
「市民活動プロデューサー通信」のコラム原稿としても配信しています。
http://blog.mag2.com/m/log/0000059597/　過去の原稿はこちらで読めます。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊　＊　＊
・今回探るのは、「ミッション」です。「脱ミッションマネジメント」の提案をしてみます。
・本コラムも10回目になるので、ここでダイレクトに《ボランティア／ＮＰＯ／市民社会》論を論じてみよう。うまくいけば何回か継続してもよいし、そうでもなければまたボランティア周辺を浮遊する路線に戻す。
・さて今回の議論は、自由を保障する（あるいは自由を放置する）インフラとその上にのる小さな物語の偏在。二重構造でボランティア／ＮＰＯを考えようというのものだ。それは、インフラを構築する中間支援組織（行政／民間の支援センター）の機能の話とも読めるだろう。
・「自由に放置するインフラ」と「小さな物語の偏在」の二重構造は、多分にポストモダン論（たとえば、東浩紀のオタク論／サブカルチャー論）に触発されている。現代思想的に言えば、「大きな物語の凋落」との関連であるが、その言説とミッションマネジメント論（たとえばP.F.ドラッカー）を接続してみようという試みである。
・この試みへの動機は、東のサブカルチャー論（動物化するポストモダン１＆２）を読む限り、それとボランティア／NPO論は親和性が高いとの直感である。
・さて、そもそも「ミッション」とは何か。あるいは、ドラッカーの言う組織経営における「ミッション」とは何か。
以下、メモ
・ミッションという「大きな物語」が、いかに機能するのか。（ミッションマネジメント批判）
・ミッションで、ボランティアは繋がならないのでは。
・当事者による小さな物語への共感をもとに、あっちこっちに偏在をする
・その様は、ネット世界的なインフラでの参加者の振る舞いに近い
・では、実社会でのボランティア／NPOインフラ（中間支援機能）のあり方は　など
話は大きいので、却下する可能性も・・・
（kenken)

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        </item>
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            <title>「キーワードを探る」のもと</title>
            <description>	（この原稿は未完成です）
「市民活動プロデューサー通信」のコラム原稿としても配信しています。
http://blog.mag2.com/m/log/0000059597/　過去の原稿はこちらで読めます。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊　＊　＊
・探るのは「嗜癖」です。今回は、「当事者語り」としても読めます。
・私は、依存症だ。精神科医の田辺等著『ギャンブル依存症』（生活人新書）にある「あなたのギャンブル依存度をチェック－20の質問」（P5）で19問があてはまった。この事実をどう受け止めたらよいのか。その問いが、「嗜癖」を探る動機である。
・田辺によると、「嗜癖」（addiction）は医学の公式用語ではない。そこでは「依存」（dependence）という言葉で統一されているとのことだ。ただし、ここで医学の専門的な議論をするつもりはないので、こだわらずに「嗜癖」や「依存」を使っていこう。
・嗜癖とは、スーダラ節の「わかっちゃいるけどやめられねえ」である。要は、「認識」と「行動」が解離している。田辺によると、嗜癖はアルコールや薬物などの物質に耽溺する（addict）ものと、賭博や買い物、食事などの行為やそのプロセスに耽溺するものに分けられる。それぞれ「物質嗜癖」、「過程嗜癖」と呼ばれている。（P35）
・一見、嗜癖という行動様式は不可解である。嗜癖的傾向の弱い者にとって、その行動の合理的な理由を見つけることは極めて困難だろう。ただし、対象の異なる嗜癖者間の相互共感性についてはよく分からない。後述の「嗜癖の根本的なメカニズムは同じ」との主張からすれば、比較的に共感可能性は高いのではないか。
・さて嗜癖の非合理性だが、たとえばアルコール依存症の「連続飲酒（発作）」である。これは、身体が酒を受け付けなくなるまで飲み続けるというものだ。しばらくの断酒後、身体が回復すればまた連続飲酒が行われる。この行動様式は「山型飲酒サイクル」と名づけなれている。（フリー百科事典『ウィキペディア』の「アルコール依存症」参照）
・なぜ、そこまでしてお酒を飲み続けなくてはならないのだろうか。
・この問いについて、医学的な原因／処方箋ではなくて、嗜癖の背景にある社会的なものとの関連で議論をしてみよう。それは、嗜癖を「私」の問題と捉えるか、「社会」の問題と捉えるかの相違である。後者にこそ、嗜癖問題の本質が隠されているとの仮説である。
・私の経験から、嗜癖とは「理念なき快楽行為の繰り返し」と説明したい。幾度、繰り返しても満ち足りることはない。満ち足りることがないから、なお繰り返す。その行動様式には、嗜癖で得る快楽（あるいは苦痛）以外に目的がない。すなわち、その行動は《社会》から閉じている。
・もちろん、人間を対象とした嗜癖もある。アダルトチルドレンで「共依存」という言葉が流行したが、私はそれを社会関係のひとつの類型ではなく、「私」の形式と読む。二者間（あるいは複数間）であっても、やはり《社会》から閉じられている私的な行動様式である診断するのだ。
以下、メモ
・「理念」の欠如と、ポストモダンな社会との関連（社会から閉じられた行動様式の一般化）
・この「病理化→一般化」のプロセスを説明し、私の当事者性の解体へ
・最後に、ちょこっとボランティア論と接続して、終わり
（kenken)

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            <title>「キーワードを探る」のもと</title>
            <description>	（この原稿は完成しています）
「市民活動プロデューサー通信」のコラム原稿としても配信しています。
http://blog.mag2.com/m/log/0000059597/　過去の原稿はこちらで読めます。
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河合香織著『セックスボランティア』新潮社、2004発行
・今回探るのは、「セックスボランティア」「性の社会化」です。
・本著だが、先日、購入したものは29刷となっていた。発行から１年半である。売れている理由を推測するに、「障害者の性」を綴る一般書が少ないことが考えられる。しかし、それ以上に「セックスボランティア」（以下、ＳＶ）というタイトルの貢献度が高いのではないか。
・内容は、「障害者の性」という扱いにくいテーマを真正面から取材したルポルタージュだ。その実態の客観的な記録に徹するというよりは、取材の中で筆者自身が「障害者の性（生）」に翻弄される様子が隠さず綴られ、そのことがこのテーマへ読者をひきつける効果となっている。
・「この本をどう読むか」と問われたら、私はタイトルにある「ボランティア」ではなく、「障害者」の物語と答えるだろう。正確に言えば、障害者の「性／生」の物語である。
・たとえば、序章と第１章で紹介される重度身体障害者の竹田芳蔵だ。その性（生）の存在感は圧倒的である。彼は、酸素ボンベを装置して吉原のソープランドに乗り込む昭和７年生まれのお爺さんだ。行為の最中は、ボンベは邪魔なので外される。要は、命懸けでする。
　せい　は　いきる　こんぽん　やめるわけ　にはいかない（P21）
・その行為のリスクを案じる取材者へ、言語障害をもつ彼は文字盤を使ってそう言ってのける。結局、この言葉がルポ全体に通底するテーマとなったようだ。この言葉は、「性とは、かくも生と切り離せないものか」と言い換えられ、本著の最後を締めくくっている。
・さて、ソープの話までは苦笑しながら「タフなお爺さんだねぇ」と読んだ。しかし、ここでは詳細を明かさないが、彼が「ヒトナミニ　コイガデキタコト」として語った人生一度の恋愛物語は胸に迫った。戦前生まれの障害者が言う「ヒトナミニ」の重さは、私には想像がつかない。
・取材は、「男性の身体障害者」、「女性の身体障害者」、「知的障害者」、そして「障害者のカップル」を追っていく。それは、それぞれの「性」の実態を明かすとともに、それへの支援の可能性が試行錯誤されるものである。ＳＶも、そのひとつだ。
・支援者は、福祉の専門家、風俗産業、ボランティアなどで、オランダでは有料サービスを利用する障害者へ自治体が補助金を出している。支援の内容は、障害者の風俗利用のサポートから、愛撫やセックスそのものを行うものがある。またカップルの性の介助もある。障害者の性の啓発や当事者への性教育プログラムも、有力な支援と言えるだろう。
・本著は、知的障害者の「性」にも１章を充てる。それは身体障害者にも増してタブー視されてきた。そこでは「寝た子を起こすな」と言われ、性教育が行われてこなかった。また、「優生保護法」（1997年母体保護法へ）のもと行われていた優生手術（断種）について触れられている。
・それは、「本人の同意なしに生殖機能を断つことができる」という法律である。本著では、その問題を掘り下げられないが、多くの人がその歴史的事実を知るきっかけにはなっているだろう。この問題から、「性」が「生」の問題であり、人権の問題であることが理解できる。
・さて「ＳＶ」についてだが、本著でいくつかの事例が紹介されている。しかし、それは個人的な努力か、限られた理解者らによる試行錯誤の域を出るものではない。中には、ネットで募集をしてＳＶを見つけることに成功した障害者の事例があったが、稀なケースだろう。
・そもそも、ＳＶの「可能性」以前にその「正当性」が問われている。WebでＳＶを検索してみたら、それを厳しく叱責するものがあった。その者にとって、ＳＶは「許しがたき行為」なのだ。
・ＳＶでは、「セックス」と「ボランティア」のふたつの正当性が問われる。先の叱責する者が、「自由に（淫らに）セックスをしてはいけない」という文脈で反対をするのなら前者だ。そうではなくて、「ボランティアとして、その行為は相応しくない」と言うなら後者だ。
・後者について、「性のサービスは有料が妥当」との考え方がある。要は、風俗産業の障害者への解放である。しかし、本著によると障害者を排除する風俗店が大半で、障害者専門店もあるが全国で10店舗に届かない。その経営も厳しい。そもそも、「売買春」の是非論もあろう。
・難しい議論だが、「何が正当か」は歴史的、文化的に作られるものだ。決して普遍的なものではない。また個人差が相当にある。当然ながら、個人的に、社会的に、今後、それがどう変化するかは分からない。ＳＶについても、「正当化」される可能性を否定することはできない。
・ともあれ、ＳＶの効用はニーズを満たすことより、まずは「性の問題を開く」ことにあるのではないか。それは「障害者の性」という福祉の問題に留まらず、「性の社会化」というより広い問題につながる。要は、隠された「性」を社会提起することにこそＳＶの意義があるのだ、と。
・そこで、「あなたらならどうするか」という問いを投げかけてみよう。
　・ＳＶの依頼があったなら受けるか。受けるとすれば、それを身近な者に公言できるか。　・恋人や家族からＳＶを行いたいと相談されたら、どのように応じるか。　・ＳＶでは、男性と女性に違いがあると思うか。あるならば、それは何か。　・依頼者の恋愛感情にどのように応じるか。また、ＳＶと恋愛感情は切り離すべきか。　・依頼者のセクシュアリティの多様性をどう受け止めるか。　・有料サービスとボランティアの線引きはどこにあるか。担い手の意識に違いはあるか。　・ＳＶのコーディネーションはどうあるべきか。あなたの機関で受理できるか。
（kenken）

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            <title>「キーワードを探る」のもと</title>
            <description>	（この原稿は完成しています）
「市民活動プロデューサー通信」のコラム原稿としても配信しています。
http://blog.mag2.com/m/log/0000059597/　過去の原稿はこちらで読めます。
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・今回探るのは、「アイデンティティ」です。「あんたは誰だ」の問いの意味を考えます。
・先日、パソコンテレビ「GYAO」で黒沢清監督の『CURE』を観た。1997年の公開で、不気味なサイコホラーに留まることなく、現代人の「心」に鋭く切り込むものとして高く評価された作品だ。
　不可解な連続殺人事件を追う刑事（役所広司）、殺人事件の犯人たち（誰もが、普通の人々）、犯人の背後にいる若い男（荻原聖人）の絡みでストーリーが進む。男は、巧みな話術で人を操る不思議な能力をもっている。　男の口癖は「あんたは誰だ」である。答えても執拗に同じ問いを繰り返す。男は記憶障害なのだ。しかし、終わりに近づいた場面で事態が変わる。男が重要参考人として警察に捕捉され、殺人教唆について尋問されるシーンである。　男はいつものように「あんたは誰だ」と問う。警察官は「本部長の藤原」と応じるが、男は「あんたは誰だ」と繰り返す。警察官は苛立つが、「記憶障害なのだから」と納得するしかない。ところが、男の次の問いかけが警察官を凍てつかせた。
　「本部長の藤原、あんたは誰なんだ」
・このシーンは男の不気味さをよく表している。「アイデンティティ」で、読み解いてみよう。
・本来、この場面では「本部長」というアイデンティティを相手に告知するだけで十分なはずだ。しかし、男はそれを承認した上でなお「あんたは誰だ」と問うていた。執拗なその問いの繰り返しは、強迫的にも受け取れる。なぜなら、それは問われる者の存在の深層に迫るものだからだ。
・次に、カテゴリー化について。「記憶障害」というカテゴリーに押し込めることで、「男は病気なのだから会話が成り立たない」と納得できる。しかし、男が「本部長の藤原」を記憶していたことで、それが否定された。この否定は、警察官をとても不安な心理状態に置く。
・なぜなら、動機が不透明な犯罪者を「心の病」というカテゴリーに押し込み、自分たちがいる領域から隔離することで安心、安全を確保しようとする心理的、社会的作用が無効になるからだ。
・最後に、支配／被支配関係について。アイデンティティに潜む権力構造の問題だ。「あんたは誰だ」と強迫的に問うのは、本来、警察官であるべきだ。しかし、ここでは支配者（警察官）と被支配者（重要参考人）の立場が逆転している。
・さて、「アイデンティティ」の起源はフロイト派社会心理学者のエリクソンだ。彼は、それを「個人的同一性」と「社会的同一性」に区分した。前者は「私がみる私の像」、後者は「他者がみる私の像」である。彼は、そのふたつのずれを心理的危機（心の病）の要因とした。
・このような心理学にある「他者の関係性」（＝社会的構築性）は、社会学などに引き継がれ徹底化される。この知の系譜は、上野千鶴子が「脱アイデンティティの理論」（『脱アイデンティティ』勁草書房収録）でまとめている。主体の社会的構築性の徹底は、まさに逆転の発想だ。
・上野によると、主体を「言語」による構築物とみなす構築主義では、主体化とは「言語という他者の秩序への従属化」（ラカン）であり、それは「他者になること」にほかならない。ここでは、主体の「能動性」が払拭されている。
・さらには、「主体が語るのではなく、言語が主体を通じて語る」（バトラー）と捉えられる。ここでは主体の「主体性」自体が払拭され、それは「媒体」でしかない。バトラーは、主体に代えて「エージェンシー」を使う。それは「行為媒体」と訳されている。
・このように主体の社会的構築性を徹底することで、そもそも「誰がアイデンティティを必要とするのか」という問いが可能となる。これは、カルチュラル・スタディーズの草分けスチュアート・ホールの論文タイトルでもある。引き続き、上野の引用だ。
　IDカードこと身分証明書は、文字どおり「おまえは何者か」という支配権力の問いに答えるために発行されている。ホールはエルネスト・ラクラウ（マルクス主義政治学者）を引用して、「社会的アイデンティティの構成は権力の作用である」と指摘する。（P30、カッコ内筆者）
・そこで、「権力の作用」への対抗策を考えよう。私は、「匿名」、「選択」、「退出」を提案したい。
・まず「匿名」だが、「匿名の参加は無責任」とも言われるが「権力の作用」を逃れるには効果的だ。「選択」は自分のアイデンティティのメニューから自由に選択して社会参加すること。最後の「退出」は、その社会からいつでも出て行くことができるということだ。
・徹底して個人の自由の観点に立てば、特定のアイデンティティを名づけられることも、名のることも必要はない。また、それが統合されている必要もない。そもそも、その社会に存在し続ける必要もない。
・しかし、どれもネット社会ではよくある参加の原則である。ボランティアの領域で言えば、セルフヘルプグループ（当事者の会）の運営がこれに近いのではないだろうか。どちらも、権力からの支配（管理）を退けようとする個人主体の世界である。
・最後に、「ボランティア」というアイデンティティについて。
・これも社会的に構築されたものなので、「権力の作用」から逃れられていない可能性がある。「ボランティア」と呼ばれて、違和感を覚えたことはないだろうか。その時は要注意だ。権力から逃げること（退出）も立派な「異議申し立て運動」ではないだろうか。
（kenken）

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            <title>雨の土曜日</title>
            <description>	みなさん、こんばんは！ｉｎａでございます。今日は暖かい雨の土曜日になりました。桜の花はあと数日で開花しそうですね。
先週のことになりますが、豊岡に卵かけご飯を食べにいってきました！映像をアップします。卵かけご飯！なんて懐かしい･･･、いつも食べてるよ！！など、個人の思いはさておき。
ここのたまごかけご飯は非常に美味しかったです！これをビジネスとして成功させたセンスはすばらしい。車でないと難しいですが、是非一度ご賞味にいらっしゃってください！！新聞などでもよく取り上げられたお店みたいですよっ！！
&amp;nbsp;

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